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レポート

第15回うえだ城下町映画祭のゲストトークを報告します。(その2) 
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「映画のまち上田」ゲストトーク

映画のまち上田ゲストトーク  上田在住の関本郁夫監督と照明技師の安河内央之さん、俳優の田中要次さん、安河内央之さんのもとで映画を製作している西川弘之さん 、佐藤哲哉さんをお迎えしトークを行いました。

Q.関本監督が上田に住んでいらっしゃる理由は?
 上田には4〜5年住んでいる。いっぱい仕事をしてきたので将来は別荘を持ちたいと思っていた。「およう」で上田でロケをした時に母袋市長と知り合い、別荘の話をしているうちに下半過の家が空いているので住んでくれないかと言われた。見に行ったら前は山で風景もいい、上田は天候も良いし購入して現在に至ります。住んでみて上田の町の魅力は空気がおいしいし風景がたまらない、山や温泉や古いたたずまいがある、非常に風光明媚で雨や雪があまり降らない、とてもいい街だと思う。

Q.安河内さんが上田に住んでいらっしゃる理由は?
 関本監督から古民家を買って再生してみろというリクエストがあった。建築関係が好きでパネル建築で自分で建物を作ったり東京で映画のセットも作っていたが、古民家再生は最高と思って飛び付いた。上田の方たちは非常にみんな協力的で親切で人間性にほだされたし、関本監督のそばにいたら面白いと思った。
 関本さんの家の上に200坪の土地があり、僕もこちらに来てなんとかやってやろうと昨年の9月から上田にいる。ただ、去年の冬は心掛けがなかったので寒かった。

Q.他の3人の方との関わりは?
安河内:田中要次さんは役者になりたくてJRを辞めてきた。役者は大変だから照明をやりながらいろいろな監督と知り合い、映画の世界に入っていくのが手っとり早いとアドバイスした。
田中:安河内さんは今思えば恩師ですね。照明助手をして3年食いつないでいた。安河内事務所にいました。
安河内:彼はとても器用。映画用の蛍光灯ライトを作ってもらったらスイッチを入れる穴をきれいに掘る。役者じゃなくて技術者の方がいいのではないか?と言ったが、役者として成功しているので悔しい(笑)。
田中:いや、もしかしたら本当に照明で生きていたかもしれないですね〜(笑)。 安河内さんが上田にいてスタジオを作っているのを聞いた。呼ばれて、そこで作品を作っている佐藤さんの映画に出させてもらった。
安河内:ぼくは「アキルフィルム」という団体を作って映画を作っている人を支援しており、10年くらい西川さんや佐藤さんとやっている。上田は温暖化になって氷が解けてもこちらは水びたしにならないから安心して映画を作れる、と言って呼んだ(笑)。
佐藤・西川:月に1〜2度上田に来ています。

Q.上田の印象は?
佐藤:正直映画にかかりきりで、まだ分からないこともたくさんある。
西川:上田では昔からロケがあったりフィルムコミッションがあるのを知っている。絵になる自然の風景がある。関本監督の家を借りたりして満足していて撮影している。

Q.安河内さんは撮影スタジオも作っているそうですね?
 以前五日市にスタジオを作った。 上田に来て、みなが癒やされる場所を作りたいと思ったので、ニコノス島をイメージした白壁の家の街並みのスタジオを作っている。 また、丸山邸の蔵の2階に「映画の部屋」を作るプロジェクトを進めている。
 丸山邸は「たそがれ清兵衛」を撮影したところ。今までフィルムばかりで映画を作っていたが、その場所でビデオを使って上田発信の映画をたくさん作れると思ってわくわくしていた。
 しかし、11月8日に火事が起こってがっくりした。寂しく、哀しかった。
 焼けたところは再建する。プロジェクトを行っていたNPO法人信州上田文化デザイン研究会で継続してやっていこうと言っている。ぜひ再生したい。
田中:焼けたまま撮り始めるのはどうですか?
安河内:実はもうやっています。田中さん丸山平八郎役(廃藩置県後に民間に払い下げられた上田城の本丸付近を一括購入し、上田城を残すのに貢献した)で出てくれませんか(笑)?

Q.安河内さんがこのように活躍していらっしゃることについて、上田に誘われた関本監督、どうですか?
関本監督:安河内さんは若いから・・・。私の師匠の加藤泰監督は、映画監督は撮る映画の数は決まっているんだと常々言われていた。 無理してやってはいけないもの、億というお金をかけてやるので・・・そうそう借金も嫌ですね(笑)。

 この後、西川さんと佐藤さんが作った短編映画「開運」と「夢のまた夢」を上映。映像と音楽だけの「サイレント映画」で、作品の監督である西川さん、佐藤さんが弁士として台詞を読み上げました。

Q.作品をご覧になった感想は?
西川:大きなスクリーンで上映するのは初めて。残念ながら元々の35mmのフィルムでなくてDVDだが、十分満足した。
佐藤:大きいスクリーンは気持ちいいですね。
田中:観て非常に恥ずかしい、すごい俺、猿芝居してると思った。声が変わったせいですかね〜(笑)。
佐藤:本当は本人にやってもらえばいいんですが・・・今度は田中さんにお願いします(笑)。

Q.皆さんから一言ずつお願いします。
西川:今回は5年前の映像なので、新たにこちらで安河内さんのスタジオを利用してやりたい。会場にも映画製作に興味のある方がいたらぜひ安河内さんに連絡してください。みんなで面白い映画を作って盛り上げていきたい。
佐藤:上田のフィルムコミッションは全国で有名です。でもロケ地だけでなく上田発信、面白いことをやりたいです。今まで意思のあるものの集まりでやってきたので、上田にいる人で技術がなくてもやりたい人がいたら一緒に作っていきたい。
田中:小諸に兄の家族が住んでいるし、数年前は別所温泉などによく来ていた。仕事としては「リング0」が舞台になっていて縁がありますが、もっと上田に来て出演したい。
安河内:上田からサイレント映画をどんどん発信していきたい。
関本監督:若い人たちが上田から映画を発信したり、色々な映画人が上田に来たり、次の世代の人たちが発信してくれると嬉しい。

Q.このあと上映する「スクール・ウォーズ HERO」について関本監督から見どころなどお願いします。
 今から7年くらい前の作品で、伏見工業高校のラグビー部の監督である山口先生をモデルにして作った。私の母校でもあるが、私がいたころはラグビー部すらなかった。
 卒業して山口先生が来て苦闘の連続だったという話を聞いたり、花園で優勝したのをたまたま見た。NHKの「プロジェクトX」でもう一度みたい番組のナンバーワンになり、それを観て文句なく感動した。それで映画を撮りたいと思った。会社企画でないので自分が走り回って作った。
 俳優はラグビー選手でないが大戦相手は本物の選手。なので俳優には六ヶ月の間、伏見工業高校にいた薬師寺(利弥)に指導してもらった。
 映画の大スクリーンで観たいと思っていたので上田で上映してもらうのは感謝したい、じっくりと自分で観てみたい。

このあと「スクール・ウォーズ HERO」が上映されました。

トークショー「遊侠一匹ができあがるまで」 映画研究家:円尾敏郎

遊侠一匹ができあがるまで" 「沓掛時次郎 遊侠一匹」は昭和40年に撮影され昭和41年に公開された。
 昭和26年に東映が創立され、京都撮影所では昭和28年から時代劇を毎週2本立てで新作を送り出していた。
 中村錦之助は昭和29年に東映に入り、毎月1本の新作に出演していた。
 しかし東映は昭和38年に「人生劇場 飛車角」などをヒットさせたことにより大きく映画の制作方針を転換してヤクザ映画や任侠映画を作るようになり、時代劇俳優は仕事がなくなっていった。
 昭和41年、錦之助と他の時代劇俳優が労働組合を結成する。
 昭和26年からずっと時代劇を作ってきたことにより、スタッフや俳優たちが時代劇の所作・小道具・美術・撮影方法・時代考証・衣装などいろいろなことを吸収していったが、それが一気に失われていく、崩壊するという危惧感を持っていた。
 組合には会社からの圧力があったりして「沓掛時次郎 遊侠一匹」で重要な役で出ている東千代之介はこの撮影に入る前に東映を退社した。
 「沓掛時次郎 遊侠一匹」は錦之助の兄、小川三喜雄が制作の統括で、三村敬三さんと一緒にプロデュースとキャスティングを取り仕切った。東千代之介は東映をやめたが、錦之助の兄さんに頼まれたら断れないということで出演した。千代之介が出たことによって「沓掛時次郎 遊侠一匹」は非常に豊なものになっている。

 第11回目のうえだ城下町映画祭では「関の弥太っぺ」を上映したが、二本とも中村錦之助の作品であること、長谷川伸が原作の戯曲であること、それ以外にキャメラマンが古屋伸というのが共通点。
 私は古屋さんの撮影現場にいて撮影部照明部で一緒に仕事していた。
 東宝のレッドパージで追い出されて東映に入り、昭和33年にテレビ、35年に映画デビューで 加藤泰監督に師事し、影響をうけながら中村錦之助の作品を多く撮ってきた方である。
 「関の弥太っぺ」の監督は山下耕作監督だが、山下さんに古谷さんについてお尋ねしたところ、古谷さんは加藤さんの影響を受けて大変尊敬している、とおっしゃっていた。
 どういうことかというと、カメラを低く低くポジションを据えていく、またローアングルでちょっとあおるようにして撮る、あとフィックスという固定して撮影する。そういう影響を受けている。当初は移動車やクレーン撮影を縦横無尽に動かしていたが、徐々にローアングルフィックスになって「沓掛時次郎 遊侠一匹」はそれが確立するちょっと前である。

 「沓掛時次郎 遊侠一匹」では加藤泰監督が決まる前に、シナリオは内田吐夢や今井正など多くの監督と組んでいた鈴木尚之さんということになった。昭和38年6月に原作者の長谷川伸が亡くなり、このことにより「関の弥太っぺ」は原作からいささか離れるところがあったが、「沓掛時次郎」ではシナリオに大きな点で変更が加えられている。
 オリジナルシナリオと思えるくらいの、原作には全くない部分が渥美清さんの出演シーン。
 シナリオができてから加藤泰さんが監督を引き受けたが、原作に忠実にしてほしいという要望をし、なかなか撮影に入れなかった。しかし、鈴木さんは一言一句シナリオを変更してもらっては困ると加藤監督に突き付けた。
 加藤監督は、原作から大きく離れたオリジナルの部分を減らして、錦之助と池内淳子のくだりをじっくり描き足してほしいと何度も要望した。しかし、シナリオライターはこのオリジナルの部分こそ原作の精神を最も輝かせるシナリオとなっているといい、とうとう撮影が始まってしまう。

 上映の前なので詳しくは言わないが、(映画の設定としては)今の世の中で考えるとまったく不可能な設定である。絶対信用できない設定の中で納得させている作品だと思う。
 ということはシナリオ、演技者、演出家、スタッフ、俳優全員の力が結集して不可能な設定をなしえた作品だと思う。
 観客の皆さんにはご覧になってから納得できたか、できなかったか、女性は池内淳子の立場になって、男性は錦之助の立場になってこの設定でこの状況で納得できるのか、とご覧になっていただければと思う。
 まぎれもない、みなさんのこれからの人生に大きな影響を与える傑作と思います。

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